愉快な物語、面白い歴史、推理小説などのblog

どうせ見るなら・読むなら心から楽しくなる、未来が明るい物話がいい。そして時々コアな話も。そんな話を子どもたちや友人に紹介したい。司馬遼太郎と宮崎駿のファンが、そんなことを思いつつ好きな作品の感想などを述べてます。

『明治の若者の気分(坂の上の雲連載予告)』と『京の味はおけら詣りで』など(司馬遼太郎が考えたこと3 より)

共に全く異なるようなエッセイが記憶に残っている。

 

『明治の若者の気分(坂の上の雲連載予告)は、名作『坂の上の雲』を新聞紙上に連載する前のひと語りだ。

小説を構想していると、一つの情景があるようだ。正岡子規から話は始まる。

日本の短歌、俳句という伝統文芸に近代的価値を与えた人物。その伊予松山出身の若者の大学予備門時代の友人が、秋山真之である。真之はもともと子規と文学をやりたかったが、兄の好古が苦学して陸軍軍人となり、安い給料から幾ばくかを割いて真之を東京へ呼んだため、兄に道楽は許されず、結局海軍兵学校に入った。真之は子規と共に文学をやろうと誓い合っていたので、その違約を詫び、「もはや生涯会うこともないだろう」と言う悲壮な置き手紙を書いている。

秋山真之は、かの有名なロシアのバルチック艦隊を完全ゲームの形で撃ち沈めた東郷艦隊の作戦を尽く立てた人物。その彼らを中心に明治の若者に感じたその気分の特殊性を感じたこと。

また、秋山好古は日本の騎兵集団を率い、世界で最も強いと言われたコサック騎兵に対する戦法を考え、これを満洲の野に破った。

司馬さんは、この明治の若者の気分と兄弟を主題にしようと考え、この時代を描くのに必然的に必要となる日露戦争のことを5、6年調べたと言う。そしてまだ自信がないと。。

これが大作を描く時の司馬さんの覚悟かと思うと、尊敬の一言である。

 

 

『京の味はおけら詣りで』は、不思議な雰囲気のエッセイだ。昭和40年代の京都の年越しの雰囲気が味わえる。これは、大きな魅力である。ひと昔のとても素晴らしい情景に我々も浸ることができる。

司馬さんは、自身の小説でよく書いた長州藩河原町藩邸あとの京都ホテルに宿泊し、この大晦日に行われる行事に心を馳せた。

おけらとは、白朮とかく、菊科の薬草で、祇園八坂神社の禰宜が潔斎して火を起こし、その浄火を境内に積み上げたおけらに移し、大たき火をたく。京の人々はその火をもらいにいくのだそうである。その浄火をかまどやガスに移し、元旦の雑煮を煮て一年の始まりを祝うのだが、貰うのは火縄でもらい、それをもらうために夜更から出て行き、帰りは消えぬように回しながら帰っていく。その人出が闇に馴染むとあえやかであったという。この行事は観光客用ではなく、地元のものだから、一層そう思われるのであろう。

その後、司馬さんは静かな方に行き、糺の森下鴨神社にいかれた。午前一時で人影はなかった。それでも冷え冷えとした神域には庭燎が燃え、その火影のむこうで微かに祝詞が聞こえた気がしたそうだ。

当時でさえ、日本中から年末年始の行事が消えてゆこうとしていたそうだ。

今も、続いているのだろうか。

 

あとある小篇で、「勉強だけが出世に必要とされた佐賀藩」で、漢学コースと洋学コースで若者がそれぞれおかしくなるほど勉強していたこと、その結果、日本でトップレベルの優秀な技術が 育ち、小さな軍艦や上野で役立ったアームストロング砲をはじめとする洋式大砲、小銃などが国産化できるようになったことが紹介されていた。ただここでの主題は、佐賀で育った大隈重信が「一藩の人物を尽く同一の模型に入れ、ために倜儻不羈の気象を失わせしめたり」と藩の学問政策、そして教科書の葉隠に対しても同様、痛烈に批判していたことで、そのことにより彼が学問の自由や独立を大事にする学風を持つと言われる早稲田大学を作るに至ったのではないか、と言うことだ。この観点は面白かった。