愉快な物語、面白い歴史、推理小説などのblog

どうせ見るなら・読むなら心から楽しくなる、未来が明るい物話がいい。そして時々コアな話も。そんな話を子どもたちや友人に紹介したい。司馬遼太郎と宮崎駿のファンが、そんなことを思いつつ好きな作品の感想などを述べてます。

『千葉の灸』(司馬遼太郎が考えたこと4 より)

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竜馬がゆく』をもとに、千葉さな子さんのことを書いた短編エッセイ。

作中の女性の中では個人的に千葉さな子さんが好きであったために、彼女の後日談のあるこのエッセイを読んでとてもうれしかった。ただそれだけではなく、この『司馬遼太郎が考えたこと4』の中で、もっともエッセイとしても優れていると感じた作品である。

 

『千葉の灸は、明治の時代に生きた、竜馬関係者である千葉さな子の後日談。

タイトルの千葉から、さな子か、周作か、と期待しながら本文に入ると、まず、「甲州自由民権運動家」である小田切謙明のことから入るので、少し面食らう。

ただ、そのうちこの「小田切謙明一生懸命」という昔はやった言葉のもととなった、この人物の生き方について、ハマっていく。

田切謙明は、明治当初から板垣退助の結社に加わり、河野広中らと国会期成同盟の大会で幹事をやったような相当な地方民権家だったようだ。

しかし素志であった憲法が成立し、国会が設立されることとなり、それ自体は喜ばしいことだが、当時の選挙は買収が横行しており、彼の資金は長年の奔走で使い果たされていたので、当時の山梨の選挙民がどう判断したのか買収されたのかはわからないが、結局彼は長年の苦労にもかかわらず(日本として立憲して国会が開設されたから良かったのかもしれないが)、自身は国会議員として政治に関与できなかった。

 

そして、ここで話は転回し、千葉の話につながる。

明治以降剣術は流行らなくなったので、千葉家は周作・定吉の頃からある独特の「千葉の灸」を生業にしていたそうだ。

そして、千葉家の子孫の方の話が出るが、実は父親から聞いた話を書いておられず、よくわからないということで、一旦話は切れそうになる。

しかし、さな子のお墓が甲府にあるという事実から、冒頭の小田切謙明の話に繋がってくる。

 

さな子さんは維新後華族女学校で働き、その後おそらく老境にかかる頃には千住で「千葉の灸」という看板を掲げて、必要としてくれる人には灸を施していた。

そこに、中風に病んでいた小田切が、奥さんが中風に効くと聞きつけて、人力車でさな子さんを訪ねた。奥から、上品な老婦人が出てきて、話すうち、自身は桶町千葉家の娘で、坂本竜馬の許嫁という。

板垣から坂本のことを自由民権家の先唱者的存在と聞いていた小田切謙明は、この老婦人の境涯が気にかかり、また小田切夫妻は底抜けの親切者だったので、最後は独り身のさな子さんの身を案じ、引き取り、甲州で住んだとのこと。

最後にその墓碑銘について記載されているが、さな子さんの晩年は、それはそれで幸せだったのだろうとホッとした。それに加えて、私はこれまで知らなかった民権運動に身を捧げた純粋な小田切氏と、その夫妻の親切さに、心に沁み渡るようなうれしさを感じた。

 

そして、この一編を振り返った時、冒頭ではタイトルと全く異なる人物を紹介し、その話を続け、ついにはそちらの話に引きこまれた後に本題へとつなげ、しかもその人物同士が深くつながっており、最後は心にジーンとくるエッセイの構成と、それを成す司馬さんの筆致に、驚くとともに感動した

自分もこんなエッセイを書いてみたいと、月並みに思った。