『学問のすすめ』を江戸時代の2大巨頭をもとに論じたエッセイ。
学問とは知識があることではなく、態度であること。それを新井白石と吉田松陰という二人から学ぶ。
自分の子どもたちにどう学問をすすめたら良いかという難問に一筋の光明を見たように気がした(笑)
松陰は知っていたが、白石はよく知らなかったので、こんなにすごい人が江戸の政治を支えていたのであれば、それなりに良い時代であったのだろうとも思った。
『白石と松陰』は、江戸時代に生きた知的偉人の話。
イタリア人のシドチという好奇心の塊のような人が日本に来て、当時家宣の政治顧問であった白石一人がようやく彼と知的コミュニケーションをとり得たという一事を描いている。
これは二人を描きたいというより、シドチはキリシタンにとって死地である日本に来るためにマニラで九州出身の日本人の二世から辿々しい日本語を習いやってきた、しかも当時の欧州の学問を16科目納めた知識人であったこと、そして白石も初めて接した西洋人について、事前にキリスト教や西洋の事情を知り得るだけ知った上で、誰もわからない日本語らしきものを、「マニラ経由で日本にやってきたなら九州の方言や発音が多分に混じっているだろう」と考えつつ聞き取りを行い、徐々に言葉が通じた。これはあてずっぽではなく、白石は極めて合理的な人物であったから、科学的態度から分析してこの行動をとったことが重要である。これらの二人の態度をもって、司馬さんはこれが学問だと感じておられた。
以上について、結論を次のように締め括っておられる。
「明治以前の最大の人文学者である白石は、その学問はほとんど独学により得た。師匠はある程度成長してから木下順庵についた程度である。松陰も、学校教育を経ることなくしてその教養を深め、自分を成長させることに成功した。共通するのは、知的好奇心の強烈さ、観察力の的確さ、思考力の柔軟さであり、その結果として文章が常に明晰であった。さらに言えば天性なのか、学問を受け入れて自分の中で育てるということについての良質な態度を見事に持っていたということである。したがって、学校教育は必要だが、このような態度があることの方が重要であり、これさえあれば、僻地でも学問は成就する」
『ある胎動~「新井白石とその時代展」によせて』は、日本人の忘れていた学問を、門外漢の人々が思い出させてくれた、ということを紹介した話。
日本人は、明治に入り、以前の学問という遺産を投げ捨てて、西洋文明を導入した。
従って、大学でも西洋学問は盛んになり、かろうじて漢学講座は生き延びたが、「日本漢学課」という、とても優れた学問群が忘れ去られた。つまり、室町の五山文学や江戸期の思想や文学者たちのことである。
荻生徂徠、新井白石、富永仲基といった名前が我々の近い先祖であるにも関わらず遠く感じるのは、明治維新という大文化革命が中国のそれと同様に凄まじかったのであろう。
しかし、時間が落ち着くと、それらを見直そうという動きが出てきた。面白いのは、それをやるのが、在来の漢学者や国文学者ではない人に多いというところだ。
その中で光を浴びたのは、頼山陽とその時代の知識群や、吉田松陰、本居宣長、新井白石な土である。特に、桑原武夫氏の白石の評が面白い。すなわち、「17世紀末から18世紀にかけて日本人が持ち得た最も偉大な百科全書的文化人であり、徳川日本時代の不利な環境に関わらず、当時の世界的百科全書的文化人、ヴォルテール、フランクリン、ライプニッツ、ロモノーソフ、顧炎武など、10人の中に当然数えられるべき視野の広さと思考の独創性を持った先駆者であった」ということであり、改めて白石を知りたくなった。